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大野靖之 前略、日本の校舎様。

2010年秋、全国各地での「学校ライブ」が通算500校に達し、
前人未到の活動を続ける、シンガーソングライター・大野靖之。
誰のために、何のために、今日もまた歌い続けるのか…
彼自身が初めて語る「ニッポンの風景」、
そして、誰もが等しく持つ「命・家族・夢」へのメッセージ。

母が教えてくれたもの
大野靖之

雪の降る寒い朝だった。
その日僕は、音楽科の高校の卒業演奏会を控えていたが、出演するかどうか、出発の直前まで悩んでいた。危篤状態の母がこの日に亡くなる可能性が高いと言われていたからだ。母の最期を看取るべきか、それとも高校生活最後の演奏会に出るべきか、それはもうお前の好きなようにすればいいと、父は僕に言った。難しい選択だったけど、そんな時こそ母の心の声が聞こえてくるのである。
「演奏会に出なさい、あなたは歌わなきゃだめよ」
そんな風に言われたような気がした。母の傍で看取れないかもしれないという不安はあったものの、僕は覚悟を決めて、ホールへと出かけて行った。
母は僕のクラシックの声が大好きであった。勉強嫌いな僕のために、音楽科の高校を必死で探してきたのも母である。数学や英語はこの学校にはないと言い切った母にまんまと騙され(笑)、受験することになるが、望んでいた音楽のジャンルとは違うことに戸惑う僕に、オペラのCDを何枚も買ってきて聴かせ、その気にさせたのもまぎれもなく母の仕業。いつの間にか、カレーラス、ドミンゴ、パバロッティの3大テノールに夢中になり、自身もオペラ歌手になることを夢見始めていたから恐ろしい。音楽大学を目指すなんて言ったものだから、近所迷惑になるだろうと、家には防音室まで作ってくれる始末。よっぽど僕の歌に懸けていたのか、見栄っ張りだったのか分からないけど、それはそれは息子の夢を応援する熱意は並大抵のものではなかった。
同じような出来事が、幼い頃にある。あれはまだ幼稚園の頃。僕はテレビの中で華やかに踊って歌う、光GENJIが大好きだった。ローラースケートに乗り、おもちゃのマイクを握り、よく真似をしたものだ。中でも、幼い僕の目を釘付けにしたものが、バック転である。運動神経のない僕が何故興味を持ったのかは今想うととても不思議だが、バック転が出来るようになる習い事をさせてくれと、母に頼んだのだ。そして母はすぐに用意してくれた。連れて行かれたのがクラシックバレエ(笑)。「ここに通いなさい、バック転が出来るようになるわよ」って。6年通ったが、一向にバック転の練習は始まらなかったのである(笑)。それが体操だと知るまでに、それはそれは長い道のりだった。小学校高学年に入ると、白タイツが恥ずかしくなり始め、バレエをやめてしまったが、沢山の人の前で踊る気持ち良さや表現力、クラシック音楽に包まれていたあの日々は、まさしく僕の原点だと思う。

大野靖之

母が乳がんになったのもそんな頃だった。今でも覚えているけど、ずっと左胸が痛いと言っていた。固いしこりみたいのがあるとまで言っていたのに、何故早く病院で診てもらわなかったのか、それは今になっても謎のまま。いわゆる早期発見・早期治療とは、遠くかけ離れていたものだった。当時僕らはまだ幼いから、母の病気の重さや、余命なんて聞かされていなくて、入院から帰ってきた母の笑顔を信じるしかなかった。元の生活が戻ったが、そんな時間はほんのわずかだった。癌はすぐに転移して、残酷なほど母の身体を蝕んでいったのだ。中学3年生の時かな。勉強が大嫌いで、高校になんか行かないとか、いつものごとく母を困らせていた時、突然、上着を脱いでこう言った。「お母さんもう死ぬんだよ、だから悲しませないで」って。
左胸がないことをその時初めて知った。そして余命わずかだってことも。あの時の強烈な映像は今でも鮮明に残っている。それでも母は、出来の悪い双子の息子2人のために、必死で学校を探してくれた。双子の兄もけっこう苦労して、最後の最後にスポーツ推薦で合格。僕は念願の音楽科への進学も決まった。そして、僕らが高校生になってから、母の容態は途端に悪くなっていく。余命わずかだと聞かされても、まさか母が死ぬわけないと疑っている日々。それでも確実に良くなっていないのは、素人目に見ても明らかだった。
高校3年の夏頃、母はホスピスに行くことを決意する。先生にそれを告げられた母のショックの大きさを思うと、本当にせつなくて悲しい。もう治療はできないという意味を、母はどんな風に受け止めたのだろう。負けず嫌いで、プライドの高い母はきっと悔しくて仕方なかったに違いない。その頃、僕はある決断を胸に秘めていた。オペラやクラシックの世界ではなく、シンガーソングライターの道に進む決断だ。路上ライブもすでにやっていたんだけど、まあ、母はその道をあんまり良く思っていなくてね。僕の歌は好きなのだが、どちらかと言うと声楽の声をとても気に入っていたのである。だから病室でしょっちゅう喧嘩したものだ。方向性の違いってやつだね。最後まで戦ったけど、母が亡くなる1ヵ月前くらいかな、穏やかな顔をしてこう言ってくれた。
「やっちゃんの好きなように生きなさい」
2001年1月27日、高校生活最後の卒業演奏会で、僕は病室の母に聞こえるくらい、強く、そして優しくイタリア歌曲を歌い上げた。いや、母は病室ではなく確かにその会場に来ていた。僕は今でもそう信じている。その日、天国への迎えを遅らせたのだ。きっと僕の歌を聴くために。
1月29日の朝、何も言わずに母は静かに空へと旅立った。
あれから11年。僕もいろんなことがあったけど、こうして奇跡的にも歌を歌い続けている。人生には様々な決断や悩み、迷いにぶち当たる。結局、最後に決めるのは自分自身だが、その度に僕は、母だったらどんなことを僕に言うだろうかと想像する。
そして、やっぱり聞こえてくるんだ。
「やっちゃんの好きなように生きなさい」


TEXT by YASUYUKI OONO

当連載は今回を持ちまして終了となります。長い間のご愛読をありがとうございました。

大野靖之撮影 [NIPPON PHOTO ALBUM]はこちら
PROFILE 大野靖之
大野靖之

大野靖之(おおのやすゆき)

千葉県出身。1982年4月19日生まれ。
シンガーソングライターを目指し、高校生の時から路上ライブを始める。
ストレートに心を揺さぶる歌声、人間本来の不変のテーマを繊細かつ
力強く表現した楽曲により、全国各地各校でのライブ活動へ発展。
2010年秋には通算500校の学校ライブを達成した。
2005年7月、ファーストシングル「心のノート/あいしてる」でメジャーデビューし、
2008年3月、ファーストアルバム「僕が今 出来ること」をリリース。
同年7月には、学校ライブ活動の功績が評価され、青年版国民栄誉賞グランプリ・
内閣総理大臣奨励賞を受賞した。
また、2005年より現在まで、毎年継続して『ピンクリボンフェスティバル』
キャンペーンにゲスト参加し、乳がんの早期発見・早期診断・早期治療の
大切さを伝え続けている。テレビ・新聞などでも多く取り上げられ、
いま最も注目されるアーティストである。
2011年10月19日発売のチャリティーアルバム「風のよせがき」にアーティストとして参加。



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