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日本の歩き方○塩谷瞬スペシャルインタビュー

日本中が悲嘆にくれた未曽有の災害は未だ多くの爪跡を残しています… しかし、世界中と国本全国から寄せられた数限りない支援は、人々の持つ絆の強さや生きる力の大切さを[地球の愛し方]として教えてくれました。
塩谷瞬――3月11日夜に都内避難所を駆け廻り、帰宅困難者たちに手を差し伸べ、東北の被災地でも度重ねての支援活動を続けてきた俳優。
東日本大震災から1年。
[地球の歩き方]が、いま、改めて本人に訊く――あの日のこと、東北のこと、そして、これから。

2011年3月11日の14時46分、東北地方太平洋沖地震(後に東日本大震災と命名)が発生したとき、塩谷さんはどこで、何をされていましたか?地震発生直後はどのような行動を取りましたか?

事務所で仕事の打ち合わせをしていました。グラッと来て、大きな揺れが縦横両方にあり、建物がきしむ音も聞こえ、「これはまずいな…」と。まず、一緒にいた人を避難させ、 僕自身もすぐにビルを降りました。
外に出たところに小さい公園があり、そこにはまだ、おばあさんと子供のふたりしかいなかった。周りの建物を見ると、ガーデンプレイスもガタガタしていて、これはたいへんなことになるぞって思いましたね。
そのうち、付近のビルやマンションからたくさんの人が出てきましたが、公園のおばあさんと子供は石の椅子みたいなところにしがみついて泣き震え、どうしていいか分からない感じでした。 「大丈夫ですか?」って声をかけ、「僕がみんなをここに集めるのでじっとしていてください」と。
周りを見て、どうしなければいけないのかを判断し、自分ができることをしよう…それで、事務所に戻り、財布とカメラとカイロを持って、ガーデンプレイスや恵比寿・代官山あたりを廻り始めたんです。
駅ビルの屋上に行き、街中を見下ろしたら、人がどんどん固まっていました。渋谷の方は早くも渋滞になっていて、「あー、これはパニックだろうな」と。 すでに、駅構内では地べたに座って絶望的な顔をしている人もいて、とりあえず僕は、子供や泣いている人に声をかけて、倒れたものを直したりしました。

震災発生から1時間も経たないうちに、塩谷さんはツイッターやフェイスブックを活用して、情報の収集と発信(拡散)を始めましたね。

あのとき、みんながツイッターやフェイスブックを活用したのは、地震発生当初に使えるものがほぼそれだけだったから。
僕は、ガーデンプレイスでみんなを誘導し、写真を撮っていたときに、ファーストフード店内の [WiFi]の表示を目にし、「そうだ。パソコンを持ってこよう」と。 僕のパソコンはツイッターとフェイスブックとアメブロを常時ログインした状態なので、そこからすぐに活用を始めました。
それらソーシャルメディアは、誰かが誰かの情報をフォローしていくと、それがまったく知らない人の元へもどんどん流れていく。僕は無数の情報から拡散すべきと思ったものを流していきました。 結果的に、目に見えないところでいろんな人が繋がっていきましたね。たとえば、どこに避難所があるかという情報も次々にアップされ、自分で調べたら相当な時間がかかるようなものも 「情報ください!」って発信するだけで、すぐに集まってきた。仕事に置き換えれば、かなり業務効率が良かったですよね。みんな助け合っていました。
ツイッターについては、自転車で避難所を廻りながら続けていたので、ちょっと危なかったですけど。

そうして、街中での救済活動に加え、塩谷さんは都内の避難所を廻り、帰宅困難者たちにカイロを配り続けました。そうした行動のきっかけは何だったのですか?

道端に子供がポツンといたり、おじいちゃんやおばあちゃんが道路で呆然としていたので、とにかくその人たちをなんとかしたいと思ったのがきっかけでした。 最初のうちは、「僕もこんな状況だけど、みんなはどうしていますか? 気をつけてください!」「余震に備えてください」とツイートしていましたが、 そのうち、[避難所開放]の情報があり、いろいろ見ていくと、帰宅できない人たちが自分の行動を知らせる情報は多かったんですが、避難所の様子を伝えるものが少なかった。 だから、いま道を歩いている人たちはそうした情報がほしいだろうと思い、避難所を廻ることにしました。
僕はずっと自転車で廻っていたので、後ろに乗せられる人を乗せて送ってあげたり、途中でタクシーが捕まったら、高齢者を乗せてあげたりしました。 一睡もせずに避難所を廻り…外務省やJICA(国際協力機構)にも連絡しましたが、彼らも何をしていいかが分からなかったようで、警察も交通誘導でめいっぱいでしたので、 とにかく僕自身ができることをしようと動き回ったんです。
大きな事件や事故が突発的に起きたときにはたくさんの人が問題を抱えてしまうので、その問題を解消する何かの答えを僕が持っているのだとしたら、それを渡していけばいい。 それは、ボランティアというより、人間として当たり前のコミュニケーションだと思うし、たとえば、10人の村で、7人が死にそうになっていたら、残り3人のうちの1人がみんなを全力で看病し、 あとの2人が10人分の食料を取ってこなければいけないわけで…東京や首都圏だと、その規模がものすごく大きくなるという話。 だから、僕はあのときに渋谷区にいたので、まず区内の人たちに何ができるかを考えました。

避難所を廻られたときの様子、避難されていた方への塩谷さんの対応を詳しく教えてください。おひとりでの活動でしたか?

ずっとひとりでの活動でした。同じように避難所を廻っている友達とは連絡を取り合っていましたけど、お互い動き続けているし…結局会えずに情報交換だけでしたね。 「あそこがたいへんそうだから、とりあえず、オレ、行ってくる」みたいな。
[優先]なんて言うと差別しているようで嫌ですけど、すごく寒そうにしていたり、目に見えて体調が悪そうな人…特におじいちゃんやおばあちゃん、子ども、 女性には、カイロをどんどん渡していきました。 渋谷のバス停もものすごい行列で、「何時間並んでいますか?」と聞いたら、「8時間」と…コンビニに行って得られるものを手にし、そういう人たちにも配りました。 避難所として開放されていた某大学は備蓄品がいっぱいあったので、「僕はいま、自分でカイロを買っていろんな人に渡しているんですけど、お金がなくなっちゃったので、 ちょっとだけ分けていただけますか?」とお願いしました。結果、快く応じてくれ、それをまた別の場所に行って配ったり。
僕がカイロを渡すと、避難している方たちは「ありがとう」と言ってくれたし、若い人の中には「なんでくれるんですか?」って驚いた反応もありましたが、 特におじいちゃんやおばあちゃんは「あー、ありがとね」って、僕の意図を組んでくれましたね。

普通は、ああした状況になると、誰もが自分自身の身を守ることに必死になり、他の人のために何かをしようと考えたり、実際にできることってなかなかないですよね?

不思議な縁でその当時お世話になっていた先輩から声をかけてもらって、小6くらいから児童施設や福祉施設を廻り、大道芸とか自転車で芸をする活動をやっていました、 自分から動くことの違和感はまったくありません。 僕は天涯孤独に近い環境で育ち、小さいときからほぼ一人で生活しました。そのときに、たくさんの人が無償の愛で接してくれ、大切なことを教えてくれて、お世話をしてくれました。
「うちでご飯を食べて行きなよ」と、僕を受け入れてくれた。同級生たちも「オレはこんなに食べられないから、瞬、食べてよ」みたいな。彼らにとってはいらないモノかもしれないけど、 僕にとっては食べるものがなかったから本当に嬉しかった。だから、「捨てるのだったら、あげればいい」みたいな価値観が僕の中にもあり、自分がちょっと気を遣うだけで周りの人も 幸せになれるのだったら、どんどん実践していきたい。
それと、一人だから動けるっていうのはありますね。あのときに思ったのは、家族の有る人はまず自分の家族を守らなくてはいけないから、人のためにすぐは動けないということ。
それも大切なことだから、自分の動ける分は人のためにできることをやっていこうという思いがあります。

PROFILE 塩谷瞬(Shun Shioya) 1982年6月7日、石川県出身。血液型A 型。15歳の時に自分の波瀾万丈な人生経験を生かせる職業は俳優ではないかと考え、俳優を本格的に目指し上京。 その後、02年「忍風戦隊ハリケンジャー」で主演デビューし、05年公開の主演映画「パッチギ!」(井筒和幸監督)では日本アカデミー賞新人俳優賞、ヨコハマ映画最優秀新人賞を受賞。 以降、主演・助演映画が続き、07 年には日本映画・最多出演賞を受賞。今年12年5月公開予定「道~白磁の人~」に出演、夏公開映画「ばななとグローブとジンベイザメ」主演を務める。 また、ボランティア活動をライフワークとしており、11年1月には、海外支援「なんとかしなきゃ!プロジェクト」の著名人メンバーとして、東ティモールへ赴いた。

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